「両親への感謝の手紙 大賞」(http://www.citywave.co.jp/sinn/kansya.html)より
照れくさくていえないので、手紙で「ありがとう」
2人が奄美大島の離島から出てきてもうすぐ50年。
リストラの渦に呑まれながら、今もたくましい父さん。
僅かな内職収入、殆どを僕たち兄弟のために遣ってくれた母さん。
奄美のおばあちゃんと遠距離電話。
時間を気にしながら話していた。時々涙して。帰省すれば、と思っていた。
そんな余裕はなかったんですね。ローンで買った築50年の古い家。
ボーナスの残金は数千円。「子どもに何も買ってやれない」と涙。
30年経った今でも忘れません。裕福ではなかったけれど笑顔と人の出入りの絶えない家でした。
2人の人柄が人を惹きつけたんですね。温かい、心豊かな家。いつまでも僕の帰る家。
躾は厳しかったけれど、おかげでどこに行っても恥をかきません。感謝しています。子どもができて
初めて、親の考えが分かるというけれど、本当にその通り、私も二人のような親になりたいです。
照れくさくていえないので、手紙で「ありがとう」。
リストラの渦に呑まれながら、今もたくましい父さん。
僅かな内職収入、殆どを僕たち兄弟のために遣ってくれた母さん。
奄美のおばあちゃんと遠距離電話。
時間を気にしながら話していた。時々涙して。帰省すれば、と思っていた。
そんな余裕はなかったんですね。ローンで買った築50年の古い家。
ボーナスの残金は数千円。「子どもに何も買ってやれない」と涙。
30年経った今でも忘れません。裕福ではなかったけれど笑顔と人の出入りの絶えない家でした。
2人の人柄が人を惹きつけたんですね。温かい、心豊かな家。いつまでも僕の帰る家。
躾は厳しかったけれど、おかげでどこに行っても恥をかきません。感謝しています。子どもができて
初めて、親の考えが分かるというけれど、本当にその通り、私も二人のような親になりたいです。
照れくさくていえないので、手紙で「ありがとう」。
父へ、ずっと言いたくて言えなかった事があります。
父へ、ずっと言いたくて言えなかった事があります。
それはまじめだった私が高校生になり、毎日帰るのが遅くなったあの時のこと。
正直、お父さんに怒られることはないと思ってた。
でもいつも早寝のお父さんが玄関に立ってたね。
びっくりする暇もなく「何時だと思ってるんだ」と剣幕で怒鳴ってきた
から「なにも悪いことしてないのに遅く帰ってきたぐらいで怒らんといて!!」
と、初めて反抗した。「なんやとー!」とバシっとなぐられた。
私は呆然と立ち尽くしてしまった。だって殴られたの初めてだったから。
それに殴る瞬間の、お父さんの悲しい顔と悔しさから出た手の震えが
スローモーションのように見えたから。私はその時「大嫌い!」と言ったけど
こんなにも愛されてるんだって知ってすごくうれしかったんだよ。
あんなに怒っていたのに私の顔を見て、全く力が入らなかたよね。
だからぜんぜん痛くないはずなのに、ずきずきほっぺが痛かった。
ベットにもぐりこみ自分のしたことと親を傷つけた悲しみに声を押し殺し泣きました。
私はほっぺに手をやり、ごめんなさいと何度も誤りました。
それから家族の大切さを知りました。
結局は何があっても、誰も?が私をのけ者にしても家族は、限りない愛で私を守ってくれる。
それを知ることが出来ました。今まで本当にどうもありがとう。
これからは私たち夫婦があなたたちを守っていきます。
それはまじめだった私が高校生になり、毎日帰るのが遅くなったあの時のこと。
正直、お父さんに怒られることはないと思ってた。
でもいつも早寝のお父さんが玄関に立ってたね。
びっくりする暇もなく「何時だと思ってるんだ」と剣幕で怒鳴ってきた
から「なにも悪いことしてないのに遅く帰ってきたぐらいで怒らんといて!!」
と、初めて反抗した。「なんやとー!」とバシっとなぐられた。
私は呆然と立ち尽くしてしまった。だって殴られたの初めてだったから。
それに殴る瞬間の、お父さんの悲しい顔と悔しさから出た手の震えが
スローモーションのように見えたから。私はその時「大嫌い!」と言ったけど
こんなにも愛されてるんだって知ってすごくうれしかったんだよ。
あんなに怒っていたのに私の顔を見て、全く力が入らなかたよね。
だからぜんぜん痛くないはずなのに、ずきずきほっぺが痛かった。
ベットにもぐりこみ自分のしたことと親を傷つけた悲しみに声を押し殺し泣きました。
私はほっぺに手をやり、ごめんなさいと何度も誤りました。
それから家族の大切さを知りました。
結局は何があっても、誰も?が私をのけ者にしても家族は、限りない愛で私を守ってくれる。
それを知ることが出来ました。今まで本当にどうもありがとう。
これからは私たち夫婦があなたたちを守っていきます。
どんな感謝の言葉でも言い尽くせないけど、本当に本当にありがとう。
「なんで家はサラリーマンじゃないの?お豆腐屋なんてかっこ悪い」
若い頃はあなたたちの苦労も知らず、そんな事を言ってたときもありました。
朝は町の誰よりも早く起きて、真冬の雪が降るときでも自転車でお豆腐を売りに行って。
きっと、つらい事や悲しい事もいっぱいあったと思います。
それでも明るく前向きなあなたたちは本当に頭が下がります。
今では、「うちのお豆腐は日本一、ううん世界一おいしい!」と胸を張って言えます。
「いつも明るく、元気ね。ご両親の育て方がよかったのね。」
人からこう言われる事が、私の何よりの自慢です。
どんな感謝の言葉でも言い尽くせないけど、本当に本当にありがとう。
生まれ変わってもやっぱり「しげおりんととしちゃん」の子供がいいな。
若い頃はあなたたちの苦労も知らず、そんな事を言ってたときもありました。
朝は町の誰よりも早く起きて、真冬の雪が降るときでも自転車でお豆腐を売りに行って。
きっと、つらい事や悲しい事もいっぱいあったと思います。
それでも明るく前向きなあなたたちは本当に頭が下がります。
今では、「うちのお豆腐は日本一、ううん世界一おいしい!」と胸を張って言えます。
「いつも明るく、元気ね。ご両親の育て方がよかったのね。」
人からこう言われる事が、私の何よりの自慢です。
どんな感謝の言葉でも言い尽くせないけど、本当に本当にありがとう。
生まれ変わってもやっぱり「しげおりんととしちゃん」の子供がいいな。
たくさんの愛情を注いでくれてありがとう。
たくさんの愛情を注いでくれてありがとう。
今月私は嫁いでいきます。
好きなヒトと一緒に、温かい家庭を作っていきます。
「何かあったらすぐ連絡しなさい」といつも無口な父さんが言った一言。
「あんなに小さかったのにね」と言った母さん。
反抗期には毎日怒鳴りあいが続いたね。
でもそんな私を嫌わずに、いつもいつも見守ってくれた。
必ず幸せになるよ。約束する。
今度は孫と一緒に帰ってくるからね。
今までありがとう。そしてこれからもよろしくお願いします。
今月私は嫁いでいきます。
好きなヒトと一緒に、温かい家庭を作っていきます。
「何かあったらすぐ連絡しなさい」といつも無口な父さんが言った一言。
「あんなに小さかったのにね」と言った母さん。
反抗期には毎日怒鳴りあいが続いたね。
でもそんな私を嫌わずに、いつもいつも見守ってくれた。
必ず幸せになるよ。約束する。
今度は孫と一緒に帰ってくるからね。
今までありがとう。そしてこれからもよろしくお願いします。
あの日があったから、私は立ち直れました。
「日本海に沈む夕日を見に来いや」
結婚した翌年に産まれた長男を病気で亡くした時、父さんが言ってくれたね。
疲れ果てた私の心と、体をいやしてくれた故郷の夕日。
何も聞かず静かに私を見守ってくれた両親、
あの日があったから、私は立ち直れました。
あれから、悲しみや苦しい時、いつも故郷の夕日と、
父さんと母さんの思いやりを力に頑張れました。
いつも見守っててくれてありがとう。
結婚した翌年に産まれた長男を病気で亡くした時、父さんが言ってくれたね。
疲れ果てた私の心と、体をいやしてくれた故郷の夕日。
何も聞かず静かに私を見守ってくれた両親、
あの日があったから、私は立ち直れました。
あれから、悲しみや苦しい時、いつも故郷の夕日と、
父さんと母さんの思いやりを力に頑張れました。
いつも見守っててくれてありがとう。
本当に私を産んでくれてどうもありがとう。
元気で生まれてきたはずの一人娘が風邪をこじらせ
大きな病気にかかってからというもの、
お父さんお母さんはいつも私の病気のことで苦しんでいたよね。
お母さんは私の病気が再発するたびに
「ごめんね。健康に産んであげられなくってごめんね」と謝ったよね。
その度にお父さんも背中を向けて泣いていたね。
お父さんやお母さんを泣かせる度に、私は長生きしなくちゃいけないと思いました。
長生きして必ず親孝行したいと心に誓いました。
私が30歳を迎えたとき「よくここまで生きれたね」と家族3人で感謝しながら迎えた誕生日。
今年は、私のパートナーも一緒に迎えたけど、
お父さんとお母さんが嬉しそうな顔を見て胸がいっぱいになりました。
たぶんどんな高価な贈り物よりも、私が結婚できたことが何よりもの喜びだったんだね。
そういえばお父さんお母さんの口癖は「お前が結婚するまで死ぬに死ねない」だったものね。
でももし次生まれかわれるときに、
神様に「健康であることと両親が選べることどちらを選択するか」と問われたら、
私は迷わずお父さんお母さんの子で生まれてくることを選ぶでしょう。
どんな病を抱えていても、あなた達のもとで育った子どもは幸せです。
本当に私を産んでくれてどうもありがとう。どうか二人とも元気で長生きして下さい。
苦労掛けた分だけ私が幸せにしてあげるからね。
大きな病気にかかってからというもの、
お父さんお母さんはいつも私の病気のことで苦しんでいたよね。
お母さんは私の病気が再発するたびに
「ごめんね。健康に産んであげられなくってごめんね」と謝ったよね。
その度にお父さんも背中を向けて泣いていたね。
お父さんやお母さんを泣かせる度に、私は長生きしなくちゃいけないと思いました。
長生きして必ず親孝行したいと心に誓いました。
私が30歳を迎えたとき「よくここまで生きれたね」と家族3人で感謝しながら迎えた誕生日。
今年は、私のパートナーも一緒に迎えたけど、
お父さんとお母さんが嬉しそうな顔を見て胸がいっぱいになりました。
たぶんどんな高価な贈り物よりも、私が結婚できたことが何よりもの喜びだったんだね。
そういえばお父さんお母さんの口癖は「お前が結婚するまで死ぬに死ねない」だったものね。
でももし次生まれかわれるときに、
神様に「健康であることと両親が選べることどちらを選択するか」と問われたら、
私は迷わずお父さんお母さんの子で生まれてくることを選ぶでしょう。
どんな病を抱えていても、あなた達のもとで育った子どもは幸せです。
本当に私を産んでくれてどうもありがとう。どうか二人とも元気で長生きして下さい。
苦労掛けた分だけ私が幸せにしてあげるからね。
今はまだ東京で頑張りたいけど、もう少ししたらやっぱり実家に帰ります。
実家に住んでいた時は、炊き立てのご飯やひじきの煮物、豆腐のお味噌汁が
当たり前のように食卓に並び、とりわけ美味しいとは思わなかったよ。
でも、東京ではご飯も煮物も100g単位でお金と交換。
しかも殆どが冷たいものばかり。温かい食事も、楽しい会話もない。
「どうしてこんな都会で一人暮らしているのかな。」て、ふと思う。
時々金曜日の夜、お母さんにおかずを作ってもらい、宅急便で送ってもらってるよね。
土曜日の朝タッパーを空けた時に広がる実家の匂い。
何年たっても変わらない母親の味は、一番のご馳走だってつくづく思うよ。
いつも娘のためにおかずを考えて作ってくれるお母さん。
そしてそれを荷造りして運送会社に持って行くお父さん。
両親の協力があったから、私は東京でも田舎の味と心を忘れずに生活できたんだよ。
今はまだ東京で頑張りたいけど、もう少ししたらやっぱり実家に帰ります。
その時はどうか、よろしくお願いします。
当たり前のように食卓に並び、とりわけ美味しいとは思わなかったよ。
でも、東京ではご飯も煮物も100g単位でお金と交換。
しかも殆どが冷たいものばかり。温かい食事も、楽しい会話もない。
「どうしてこんな都会で一人暮らしているのかな。」て、ふと思う。
時々金曜日の夜、お母さんにおかずを作ってもらい、宅急便で送ってもらってるよね。
土曜日の朝タッパーを空けた時に広がる実家の匂い。
何年たっても変わらない母親の味は、一番のご馳走だってつくづく思うよ。
いつも娘のためにおかずを考えて作ってくれるお母さん。
そしてそれを荷造りして運送会社に持って行くお父さん。
両親の協力があったから、私は東京でも田舎の味と心を忘れずに生活できたんだよ。
今はまだ東京で頑張りたいけど、もう少ししたらやっぱり実家に帰ります。
その時はどうか、よろしくお願いします。
迎え火の中に、二人の笑顔が映ります。
今年もお盆を迎えました。この時期になると例年のようにまた、
町のあちらこちらで他府県ナンバーの車が目に止まります。
みんな帰省をするのですね。お父さん、お母さん、お姉ちゃんと私には、
戻る部屋はあっても、帰れる家がありません。
温かく迎えてくれる二人の顔が見られなくなり、もう五年が経ちました。
すっかり老朽化し、手の施しようがなくなった実家は取り壊され、
私達家族が過ごした思い出も、更地の中に眠っています。
自分達の住むマンションの空室に置かれている仏壇の前、
今度は両親の魂が安心して帰れるよう、姉妹で温かく迎え入れる準備を進めています。
でも心の中は、表しきれぬ淋しさで一杯です。
忙しい日常の中でしみじみ思い返す時間がなくても、毎年お盆がくると感じます。
親がいることの有り難さ。在りし日々、二人は私に色々な事を教えてくれたけど、
亡くなった今もなお、教えられる事は沢山あります。
迎え火の中に、二人の笑顔が映ります。
人として、恥じる事なき人生を送りたいと思います。
強さを与えてくれた、あなた方に報いるためにも・・・。
町のあちらこちらで他府県ナンバーの車が目に止まります。
みんな帰省をするのですね。お父さん、お母さん、お姉ちゃんと私には、
戻る部屋はあっても、帰れる家がありません。
温かく迎えてくれる二人の顔が見られなくなり、もう五年が経ちました。
すっかり老朽化し、手の施しようがなくなった実家は取り壊され、
私達家族が過ごした思い出も、更地の中に眠っています。
自分達の住むマンションの空室に置かれている仏壇の前、
今度は両親の魂が安心して帰れるよう、姉妹で温かく迎え入れる準備を進めています。
でも心の中は、表しきれぬ淋しさで一杯です。
忙しい日常の中でしみじみ思い返す時間がなくても、毎年お盆がくると感じます。
親がいることの有り難さ。在りし日々、二人は私に色々な事を教えてくれたけど、
亡くなった今もなお、教えられる事は沢山あります。
迎え火の中に、二人の笑顔が映ります。
人として、恥じる事なき人生を送りたいと思います。
強さを与えてくれた、あなた方に報いるためにも・・・。
今頃になってからだけど、愛してくれて、ほんとうにありがとう。
いつも、いつもひたいに汗を流し、いつもいつもつくろった服を着て、
くる日もくる日も、農作業に励む父と母。
家族旅行なんて、揃って外食なんて、たったの一度もなかった。
コンピューターゲームのような、高価な遊び物なんて買ってもらったこともない。
愛されているとか、改めて考えたこともなかった。
でも、愛されていないんのだろうかなんて不安を抱いたことは、一度もなかった…
それが愛されていたということ。
いろりのそばに座る父の前にちょこんとすわるのが好きだった。
どんなりっぱなソファーより心地良かったにちがいない。
兄とケンカし勝てるはずもなく、悔しくて母のおなかに顔をくっつけて泣いた。
ふんわりと、あたたかかった。40年も過ぎた今になり、実感している。
愛してもらっていたことを。天国に逝った父と、気丈に一人暮らしをしている母へ。
今頃になってからだけど、愛してくれて、ほんとうにありがとう。
くる日もくる日も、農作業に励む父と母。
家族旅行なんて、揃って外食なんて、たったの一度もなかった。
コンピューターゲームのような、高価な遊び物なんて買ってもらったこともない。
愛されているとか、改めて考えたこともなかった。
でも、愛されていないんのだろうかなんて不安を抱いたことは、一度もなかった…
それが愛されていたということ。
いろりのそばに座る父の前にちょこんとすわるのが好きだった。
どんなりっぱなソファーより心地良かったにちがいない。
兄とケンカし勝てるはずもなく、悔しくて母のおなかに顔をくっつけて泣いた。
ふんわりと、あたたかかった。40年も過ぎた今になり、実感している。
愛してもらっていたことを。天国に逝った父と、気丈に一人暮らしをしている母へ。
今頃になってからだけど、愛してくれて、ほんとうにありがとう。
せめて母さんには「お袋さん」って呼びかけたかったのに。
ぼくが五歳の年、二月、五月、十二月と、兄や姉が亡くなったね。
父さんは酔うと仏壇に首を突っ込んで泣いていた。
一度なんて、子どもの所へ行くと言って梁に縄をかけ、母さんを困らせたんだ。
そして、本当に父さんたら病気で逝っちゃった。ぼくが十歳の時だ。
母さんは寮の賄婦、四十歳そこいらで、化粧道具一つ持ってなかった。
ぼくは悪い子だったよ。
来られるのが恥ずかしくて参観日など一度も教えたことがなかったもの。
学校を終え、就職し、所帯を持ったけれど、
母さんたら「自分が幸せになったら父さんたち可哀想だもの」と言って、
町営住宅から出ようとしなかった。少しぐらい親孝行の真似をさせて欲しかったのにさ。
しかもだよ、孫が生れて一月も経たないのに、
母さんたら、誰かと待ち合わせているように逝ってしまったんだ。
「親父」がいないんだから、せめて母さんには「お袋さん」って呼びかけたかったのに。
父さんは酔うと仏壇に首を突っ込んで泣いていた。
一度なんて、子どもの所へ行くと言って梁に縄をかけ、母さんを困らせたんだ。
そして、本当に父さんたら病気で逝っちゃった。ぼくが十歳の時だ。
母さんは寮の賄婦、四十歳そこいらで、化粧道具一つ持ってなかった。
ぼくは悪い子だったよ。
来られるのが恥ずかしくて参観日など一度も教えたことがなかったもの。
学校を終え、就職し、所帯を持ったけれど、
母さんたら「自分が幸せになったら父さんたち可哀想だもの」と言って、
町営住宅から出ようとしなかった。少しぐらい親孝行の真似をさせて欲しかったのにさ。
しかもだよ、孫が生れて一月も経たないのに、
母さんたら、誰かと待ち合わせているように逝ってしまったんだ。
「親父」がいないんだから、せめて母さんには「お袋さん」って呼びかけたかったのに。
『母さん、もういいんだよ。充分堪能させてもらったよ』と言いたかった。
帰郷の度に、私の子供の時からの好物である巻き寿司を作ってくれましたね。
貴女が85歳を過ぎた頃からでしょうか、私には巻き寿司の堅さが気になるようになりました。
堅く巻かれていた寿司が年毎に柔らかく、粗くなってきたように感じました。
帰りの車中で手にした寿司がぽろりと落ち、
年老いていく貴女に寂しい気持ちを感じていました。
90歳になった貴女が『お前の好きな巻き寿司がなあ、もう巻けんようになってしもうた。
力がのうなって巻けんのよ。お米がぽろぽろとこぼれてしもうてなー』
と寂しそうに言いました。私は胸がつまりました。
『母さん、もういいんだよ。充分堪能させてもらったよ』と言いたかった。
併し、何も言えませんでした。
貴女が亡くなって3年、貴女の手巻き寿司の味が懐かしく思い出されてなりません。
貴女が85歳を過ぎた頃からでしょうか、私には巻き寿司の堅さが気になるようになりました。
堅く巻かれていた寿司が年毎に柔らかく、粗くなってきたように感じました。
帰りの車中で手にした寿司がぽろりと落ち、
年老いていく貴女に寂しい気持ちを感じていました。
90歳になった貴女が『お前の好きな巻き寿司がなあ、もう巻けんようになってしもうた。
力がのうなって巻けんのよ。お米がぽろぽろとこぼれてしもうてなー』
と寂しそうに言いました。私は胸がつまりました。
『母さん、もういいんだよ。充分堪能させてもらったよ』と言いたかった。
併し、何も言えませんでした。
貴女が亡くなって3年、貴女の手巻き寿司の味が懐かしく思い出されてなりません。
一人は長い引きこもりから今年立ち直った。
遺影の父母は、にっこり笑って私の帰宅を待っている。
仕事や息子の事で絶望し、何回もその前で泣いた。
そのたびに、「泣くな、守ってやる」と救いあげてくれた。
私が離婚する前、金を借りるために二人の所に走った。
母はありったけのお金を、泣きながら私に握らせた。父の背中も泣いていた。
43才で親権だけを手にして別れた時、両親は喜んだ。
あなた達の孫は一人は世界に羽ばたきエジプト。
一人は長い引きこもりから今年立ち直った。
私は59才になったよ。ここまでよく生かしてくれたね。
仕事や息子の事で絶望し、何回もその前で泣いた。
そのたびに、「泣くな、守ってやる」と救いあげてくれた。
私が離婚する前、金を借りるために二人の所に走った。
母はありったけのお金を、泣きながら私に握らせた。父の背中も泣いていた。
43才で親権だけを手にして別れた時、両親は喜んだ。
あなた達の孫は一人は世界に羽ばたきエジプト。
一人は長い引きこもりから今年立ち直った。
私は59才になったよ。ここまでよく生かしてくれたね。
「生んでくれて有難う。近いうちにまた来るよ。」
四国の私の母は今年で56になる。私も今年で27。
子供二人に恵まれ仕事も順調。転勤で関西にいる。会いに行くのは年に一度のみだ。
考えれば母は私を含め3人の子供を女で一つで育ててきた。
「学校から帰ってきて親がいないと寂しいだろうから」と
朝は新聞配達、昼は清掃のパート、夜は内職と寝る間もなく働いて姉、私、妹を育ててくれた。
母の人生は何だったのだろう?幸せだったのだろうか?
高校生の時から何となくそんな事を考えていた。
先日、四国へ帰った時まだ幼い孫を見て顔をくしゃくしゃにして喜んでいた。
それを見た時、ふいに高校生からの疑問をぶつけてみた。
すると母は懐かしそうに笑って「あの頃は貧しかったけど一番楽しかった。
皆がいつも一緒にいたし、息子や娘達の笑い声がたえる事がなかった。
母さんの人生の中で一番楽しかった時間だよ。」と静かに答えてくれた。
今は姉と妹も仕事を持ち?母と一緒に住んでいる。あの頃のような貧しさはない。
けれど会話は減った。
私も姉も妹も貧しさをかみ締めている分、仕事や出世に熱意を燃やしそれに時間を費やしているからだ。
幸せとは何だろう。母の言葉を受け、この年にして?考えた。
母の思う幸せ。子が思う幸せは違うのかもしれない。けれど、正解なのは母の方だと思う。
母の愛情をずっと感じながら成長出来たし、少ないご飯も兄弟のお陰で笑いながら食べる事が出来た。
改めて尊敬と愛情を持って母に伝えたい。
「生んでくれて有難う。近いうちにまた来るよ。」
子供二人に恵まれ仕事も順調。転勤で関西にいる。会いに行くのは年に一度のみだ。
考えれば母は私を含め3人の子供を女で一つで育ててきた。
「学校から帰ってきて親がいないと寂しいだろうから」と
朝は新聞配達、昼は清掃のパート、夜は内職と寝る間もなく働いて姉、私、妹を育ててくれた。
母の人生は何だったのだろう?幸せだったのだろうか?
高校生の時から何となくそんな事を考えていた。
先日、四国へ帰った時まだ幼い孫を見て顔をくしゃくしゃにして喜んでいた。
それを見た時、ふいに高校生からの疑問をぶつけてみた。
すると母は懐かしそうに笑って「あの頃は貧しかったけど一番楽しかった。
皆がいつも一緒にいたし、息子や娘達の笑い声がたえる事がなかった。
母さんの人生の中で一番楽しかった時間だよ。」と静かに答えてくれた。
今は姉と妹も仕事を持ち?母と一緒に住んでいる。あの頃のような貧しさはない。
けれど会話は減った。
私も姉も妹も貧しさをかみ締めている分、仕事や出世に熱意を燃やしそれに時間を費やしているからだ。
幸せとは何だろう。母の言葉を受け、この年にして?考えた。
母の思う幸せ。子が思う幸せは違うのかもしれない。けれど、正解なのは母の方だと思う。
母の愛情をずっと感じながら成長出来たし、少ないご飯も兄弟のお陰で笑いながら食べる事が出来た。
改めて尊敬と愛情を持って母に伝えたい。
「生んでくれて有難う。近いうちにまた来るよ。」
引用元記事:https://matome.naver.jp/odai/2135091212460074101