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ヒッタイト |
小アジア(アナトリア=現在のトルコ)におこり、前1650~1200年頃、西アジアを支配した、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人の国。
西アジアで最初に鉄器を使用したとされ、ヒッタイト強大化の要因ともされている。 前13世紀にはシリアに進出したエジプト新王国と争った。 前1200年頃、海の民(東地中海上で活動した系統不明の民族)の侵入を受けて滅亡したと思われるが、その事情はわからない点が多い。 |
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リグ・ベーダ(Ṛgveda) |
インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』はアーリヤ人の神々への讃歌1028を集めたものであり、紀元前1000年ころまでに成立した。
リグは「賛歌」の意味。 ヴェーダは祭式の「知識」を意味したが、のちに「聖典」の意味に用いられた。 讃歌の中では、理想的な戦士とされる雷神インドラと、火神アグニに捧げられたものがもっとも多い。 『リグ・ヴェーダ』に歌われた時代は前期ヴェーダ時代(紀元前1500年頃〜紀元前1000年頃)と呼ばれる。 |
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駅伝制度/ジャムチ(站赤) |
中国,元の駅伝。
チンギス・ハンの時代から,モンゴル帝国を結ぶ交通路線に設けられ,オゴデイのときに制度が規定された。 そして大都 (北京) を中心とした幹線道路には,10里ごとに駅舎が設けられ,官員,使臣の護送に使用された。 中国では春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)より用いられており、モンゴル帝国も中国の駅伝制を参考にジャムチ制を整備したと考えられるが、具体的にいつ頃から駅伝制を導入したかは記録がなく不明である。 ジャムチ制の整備について記録されるようになるのは第二代皇帝オゴデイの時からで、『モンゴル秘史』はジャムチ制度の制定について記述している。 |
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ペロポネソス戦争 |
紀元前431年~同404年、都市国家であるスパルタとアテナイ(アテネ)が古代ギリシャを二分して覇権を争った戦い。
ペルシャの脅威に備えて結成した「デロス同盟」の盟主だったアテナイは、その立場を使い勢力を広げ、前5世紀に海洋帝国を築く。 前世紀から覇権を握っていたスパルタが反発し、「ペロポネソス同盟」を率いて対抗した。 スパルタが勝利したが、ギリシャ全体の衰退を招くことになった。 |
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パルテノン神殿 |
ギリシアの首都アテネの、アクロポリスの丘の上に建つ古代ギリシアの神殿。
アテネの守神アテナイ神を祀っている。現存する神殿は、ペルシャ戦争(紀元前492~紀元前449年)後のペリクレスの時代に建設された周柱を配した、ドーリア式の神殿である。 紀元前5世紀の古典文化の黄金期には、フィディアスをはじめとする芸術家たちの傑作がこの場所に置かれた。 |
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ダレイオス1世 |
アケメネス朝ペルシア帝国の王(在位前522年―前486年)、大王と称される。
傍系より出て王位につき,内乱を鎮圧して統一を回復,その征戦記録はビストゥンの碑文として残されている。 州制を創設して地方官であるサトラップ(太守)を置き,中央集権制を確立,税制・貨幣制・兵制を整備した。 サトラップの勤務状況を把握するために派遣した監督官を「王の目」といい、その補佐官を「王の耳」と称した。 ペルセポリスの造営に着手し,スーサ〜サルディス間の王道を完成。 ギリシア征服を企図して遠征(ペルシア戦争)は2回に及んだが,いずれも敗退した。 |
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カイロネイアの戦い |
前338年、ギリシアのカイロネイア(ケーロネア)におけるアルゲアス朝(マケドニア)のフィリッポス2世とギリシアのアテネ・テーベ連合軍の戦い。
マケドニア勢の伸張を恐れたギリシア諸国は,フィリッポスの和平提案をすべて拒否したため,同年8月ボイオチア北部のカイロネイアで両軍の決戦が行われた。 アテネ・テーベ連合軍は善戦し、とくにテーベの神聖隊が奮戦したが、長槍を使った重装歩兵・密集部隊と騎馬部隊を併用した戦術をとるマケドニア軍に敗れた。 |
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アレクサンドロス大王の東方遠征 |
マケドニアの王で前334年に東方遠征を開始、前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。
征服した各地にアレクサンドリアを建設、ギリシア人を入植させ、ヘレニズム世界を現出させた。 前323年にバビロンで死去、その後、帝国は後継者たちによって分割された。 |
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ポエニ戦争 |
共和政ローマとカルタゴとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。
紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた。 第1回が前264~前241年、第2回は前218~前201年、第2回が前149~前146年。 ポエニとは、ラテン語でフェニキア人(カルタゴはフェニキア系国家)を意味する。 |
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万里の長城 |
中国北辺に築かれた長城。
春秋・戦国時代の列国は,外敵の侵入を防ぐために国境に長城を築いていた。 始皇 33 (前 214) 年、秦の始皇帝は,北方の匈奴の侵入を防ぐため秦・趙・燕などが築いていた長城を蒙恬 (もうてん) に命じて増改築させ,西は甘粛省の臨洮から黄河の西方を北上し,陰山山脈に沿って東方に延び,遼東の襄平付近にいたる約1500kmの長城を構築した。 1987年、世界遺産の文化遺産に登録。 |
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カエサル 暗殺 |
前44年にカエサルが終身独裁官に就任すると、共和政の伝統を守ろうとする元老院の中に、カエサルがローマ王となって専制政治を布こうとしているのではないかという危惧が強まった。
3月15日、カエサル独裁反対派の暗殺団(その一人がブルートゥス)はついにカエサル暗殺を実行、元老院会議場で殺害した。 この時、カエサルが「ブルータスお前もか」という有名なセリフを吐いたとされている。 |
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コロッセウム(コロッセオ) |
建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場。
コロッセウム跡はローマ市のものが有名であるが、同じようなものが全ローマ世界のうちに全部で250もあったことがわかっている。 ここで市民に提供された「パンと見せ物」のうちの娯楽にあたる剣闘士奴隷の競技、キリスト教徒の処刑などが「見世物」として興行された。 最も有名なローマのコロッセウムは、75年にウェスパシアヌス帝がネロの宮殿の跡地に建造を命じ、その子のティトウス帝のとき、79年に完成した。 |
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ガンダーラ美術 |
1世紀頃から3世紀頃にかけて、クシャーナ朝時代のインドの西北、ガンダーラ地方とタキシラで開花した仏教美術。
ヘレニズム文化の影響を受けてインド西北部を中心におこった仏教芸術 |
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大乗仏教 |
1世紀頃に興った仏教の二大流派の一つ。
伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた。 インドから西域・中国を結ぶルートを経て,朝鮮半島や日本にも伝わった。 古来の仏陀の教えを拡大し新しい解釈を加えた教派で,自分ひとりの悟りのためではなく,多くの人々を理想世界である彼岸に運ぶ大きなすぐれた乗物という意味で,みずからの立場を大乗仏教と呼んだ。 |
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黄巾の乱(こうきんのらん) |
後漢の末期の184年に起こった大農民反乱。
生活に苦しむ農民を扇動したのは、張角の唱えた太平道という新興宗教であった。 張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下大吉」をスローガンにして甲子の年(184年)3月5日に反乱を起こした。 蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は「太平道」の信奉する神であった。 彼らは「黄天」を象徴する黄色の頭巾を巻いて印としたので黄巾の乱という。 張角の病死などにより黄巾軍は衰え乱は鎮圧されたが、残党を呼応して蜂起した農民の反乱や北方民族の侵入などにより、後漢朝も衰えて滅亡した。 |
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アウグスティヌス(354-430) |
西方キリスト教会最大の教父。聖人,北アフリカ,ヒッポの司教(396年)。
ローマ官吏で異教徒の父,キリスト教徒の母モニカの間に,タガステで生まれる。 カルタゴで修辞学を修めたが,放縦の生活を送り,マニ教を信じた。 プロティノス研究ののち,ミラノ司教アンブロシウスの感化によって改宗,391年司祭となる。 カルタゴでの青年期の素行やマニ教への入信を告白し、キリスト教への回心の経緯をつづった『告白』(400年頃)は、古代キリスト教文学の傑作とされ、後世に大きな影響を与えた。 |
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アヤソフィア(ハギア=ソフィア聖堂) |
ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルであった、現在のトルコの首都イスタンブルにある大聖堂を持つ建築物。
ビザンツ様式の典型である巨大な円蓋を中央にもち、それを沢山のアーチと柱で支える。 532年のニカの乱で焼け落ちたが、ユスティニアヌス帝はわずか39日後に復旧に着手。 神の栄光と己の栄華を永久に伝えるため、もとの教会よりはるかに壮大な規模とした。 5年半の歳月をかけて537年12月に完成した時、ユスティニアヌスは「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ。ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだという(ソロモン…旧約聖書に出てくる壮大な神殿を築いたイスラエル王国の王) |
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科挙 |
中国で、隋から清の時代(598年~1905年)までの約1300年間にわたって行われた官僚登用試験。
古くは貴族として生まれた者たちが政府の役職を独占する時代が続いたが、隋朝に至り、賢帝として知られる楊堅(文帝)が初めて導入した。 家柄や身分に関係なく誰でも受験できる公平な試験で、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新であった。 |
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安史の乱/安禄山の乱 |
755年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明およびその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
節度使によって一時都を奪われる出来事。 安禄山は西域のサマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血でもあった。 貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。 史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。 |
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ガーナ王国(ガーナ帝国) |
アフリカの西部、サハラ砂漠の南縁のニジェール川上流域(現在のマリとモーリタニアの国境地帯)に、8~11世紀に存在した黒人王国。
金や銀の産地として知られ、サハラ北部の岩塩と盛んに交易をしていた。 首都は現在のモーリタニアのマリ国境近くにあるクンビ・サレー遺跡ではないか、と推定されている。 この遺跡からは多層の石造建築物や墓所が発掘され、当時の人口は1万5千~2万と推定されている。 またムスリム商人との交易を通じてイスラーム教も伝えられたが、ガーナ王国の王はイスラーム教に入ることはなかった。 ムラービト朝のガーナ占領によって、アフリカ内陸のイスラーム化が本格化した。 |
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聖像禁止令(偶像禁止令/聖像破壊運動/イコノクラスム) |
726年、東ローマ帝国皇帝レオ3世が発布した聖像崇敬を禁止する勅令。
信仰上の理由のほかに、修道院勢力の抑圧を目的としていたためローマ教会が反発し、教会の東西分裂の一因となった。 レオン3世の次のコンスタンティノス5世がさらに強い聖像禁止を実施し、違反者に厳しい弾圧が加えられた。 787年にも禁止令を発布し、聖像破壊を進めたが、しかしその反動も起こり、9世紀に入ると教会側の巻き返しによって聖像を認める動きも出てきた。 結局、843年には皇太后テオドラによって聖像崇拝が認められた。 |
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両税法 |
780年、唐の宰相楊炎が皇帝の徳宗に建言して成立した租庸調制に代わる唐の中期以降の税制。
均田制(唐)の行き詰まり、節度使(藩鎮)の自立などによって税収入が減少したため、財政の回復のため施行した。 本籍を離れて脱税を図っていた有産者にも課税しようという狙いもあり、他に商人にも課税された。 その後、土地税としての性格が強くなるが人頭税の要素も残り、宋代には貨幣納はなくなり現物納となるとともに雑多な雑税も加えられるようになる。 両税法は基本的には約800年間続き、16世紀の明の一条鞭法の採用によって銀納に一本化され、清朝での地丁銀によって人頭税が廃止されて地税に一本化される。 |
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修道院運動 |
10世紀に始まり、11~12世紀に展開されたクリュニー修道院による修道院改革運動。教会・修道院の堕落に対して本来の信仰主体の回復をめざした。
一般に「修道院運動」とは、このクリュニー修道院による修道院改革運動をいう。 一般に、この運動の影響を強く受けたローマ教皇グレゴリウス7世が11世紀後半に、聖職売買と聖職者妻帯を禁止する「グレゴリウス改革」を行い、教会と教皇の権威を回復したとされている。 |
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両班(高麗と李氏朝鮮時代) |
高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。
李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常民)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。 王族の次の身分として享受することは享受し、納税・他国の士族が負うような軍役の義務さえなく、兵役免除、刑の減免、地租以外の徴税・賦役免除、常民に道や宿の部屋を譲らせる権利や家・衣服・墳墓・祭礼などに常民以下に様々な特権を持って、住民から金銭も払わずに収奪していた。 |
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ピサ大聖堂/ピサの斜塔 |
ピサ大聖堂は、イタリアのイタリアのトスカーナ州ピサにある、ロマネスク期のピサ様式の大聖堂。
ピサ市が 1063年サラセン艦隊を破った記念として献堂され,1170年に完成。 「ピサのドゥオモ広場」の一部として世界遺産に登録されている。 ドゥオモ広場にはピサの斜塔もある。 ピサの斜塔は、1173年に建設が始まり1372年に完成した。 完成までが長いのは、工期間隔が非常に長いため。 (第1工期1173年 - 1178年、第2工期1272年 - 1278年、第3工期1360年 - 1372年) |
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グレゴリウス7世のグレゴリウス改革 |
グレゴリウス7世(在位1073~1085年)は、11世紀後半のローマ教皇。
クリュニー修道院で始まった修道院運動の影響を受け、聖職者の堕落を誡め、教皇の権威を回復するために教会の粛正を推進した。 この聖職売買と聖職者妻帯の禁止などの「グレゴリウス改革」といわれる一連の改革によって、西ヨーロッパのローマ=カトリック教会は勢いを取り戻し、十字軍時代と教皇権の最盛期がもたらされることとなる。 |
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ノルマン朝 |
1066年、ノルマンディー公ウィリアムの「ノルマン=コンクェスト」によって成立したイングランド王国王朝。
フランスやドイツの中世の王権に比べ、征服王朝として諸侯に対して強大であったことが特徴。 またノルマン朝の領土はフランスのノルマンディーとドーバー海峡を夾んだイングランドに及んでいた。 ノルマン朝のイギリス王は、同時にフランス国王の家臣としてのノルマンディー公の立場でもあった。 また、このときウィリアムと一緒にイギリスに渡ったノルマン人の貴族たちによってイギリスにラテン語文化がもたらされ、アングロ=サクソン文化と融合することとなった。 |
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国土回復運動/レコンキスタ |
8世紀に始まるイスラーム支配に対する、イベリア半島のキリスト教徒による反撃の動き。
11世紀から活発となり、15世紀末まで続く。 レコンキスタとはスペイン語で再征服の意味で、国土回復運動とも言われる。 1492年の降服の時の協約によれば、イスラーム教徒は政治権力は引き渡しても、イスラーム教を守り、また衣装、習俗、言語などに関してもじぶんたちのものを守ってイベリア半島に居住しても良いという、かなり寛大な条件を与えられていた。 のちに、彼らがたびたび反乱を企てるので、1502年に追放令が出される。 |
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十字軍 |
11世紀から 15世紀中頃にかけて行なわれた,西ヨーロッパのキリスト教徒の東方遠征。
エルサレムの聖墳墓をイスラム教徒の手から奪還,防衛することを名目とした。 狭義には 11~13世紀に行なわれた遠征をさす。 第1次(1096~99) 第2次(1147~49) 第3次(1189~92) 第4次(1202~04) 第5次(1218~21) 第6次(1227~45) 第7次(1248~68) 第8次(1268~91) |
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アンコール・ワット |
カンボジア北西部に位置するアンコール遺跡の一つであり、その遺跡群を代表するヒンドゥー教寺院建築。
12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教の寺院として30年を超える歳月を費やし建立される。 ヒンズー教の神々やマハーバーラタ、ラーマーヤナなどの古代インドの叙事詩を描いた精緻な浮き彫りが残っている。 1992年、アンコールの他の遺跡とともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。 |
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猛安・謀克(もうあん・ぼうこく) |
中国東北部(満州)で狩猟生活を送っていた女真が建国した金の軍事・行政組織。
金は、女真が満州,内モンゴル,華北に建てた王朝(1115~1234) 女真の言葉ではミンガンとムーケといい、本来は軍事制度であったが、完顔阿骨打が中国華北を支配してからは、行政組織とし拡大され、金の支配組織となった。 300戸を単位とする謀克、10謀克を猛安として組織、平時は狩猟と農耕に従事するが、戦時にはすべての壮丁(成年男子)が兵士として従軍する制度であった。 |
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ハプスブルク家 |
13世紀から20世紀初頭に至る神聖ローマ帝国およびオーストリアの王朝。
15~16世紀にはヨーロッパから新大陸に及ぶ広大な家領を有し、一族で支配権を分有した。 その歴史は13世紀から20世紀に及ぶが、16世紀の全盛期をピークに、ヨーロッパ史の軸となる存在であった。 そのため、ハプスブルク家が君主となった国家、神聖ローマ帝国(962~1806年、ただしすべての皇帝がハプスブルク家だったわけではない)、オーストリア帝国(1806~1866年)、オーストリア=ハンガリー帝国(1867~1918年)を広い意味でハプスブルク帝国ということもある。 |
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モンゴル帝国(大モンゴル国) |
モンゴル高原のオノン,ケルレン両川間で遊牧生活をしていたモンゴル部族のテムジンが自部族,次いでモンゴル高原の遊牧諸部族を統一,1206年即位してチンギス・ハンと称し,モンゴル帝国を建国。
その版図はユーラシア大陸全域にわたった。 5代皇帝フビライは南宋を滅ぼして中国を統一、日本や東南アジアへも手を伸ばした。 一方で交通システムが整備され、通商活動も盛んだった。 ベネチアのマルコ・ポーロも元の大都を訪れ、「東方見聞録」を残した。 |
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里甲制(りこうせい) |
明の洪武帝は、モンゴル人の支配と、元末の農民反乱によって荒廃した農村を立て直し、国家の基盤として賦役をしっかりと徴収できる体制を作るため、1381年に里甲制を全国に施行した。
田土所有者 110戸をもって1里を編成し,そのうち人丁や税負担額の多い富裕な戸 10戸を里長とし,残りの 100戸を甲首として 10戸ずつ 10甲に分けた。 そして毎年里長1人,甲首 10人が輪番で里甲正役といわれる役務にあたり,10年で一巡した。 里長、甲首は「賦役黄冊」を作成し、賦役徴収・治安維持などの末端組織となった。 また里には、長老格の人物を里老人とし、里のもめごとの裁定などの裁判の任務を与えた。 |
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小氷期(小氷河時代/ミニ氷河期) |
ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のことである。
清は,満洲人(女真人)が建てた王朝であるので,騎馬や弓矢といった武芸を重んじた。 兵士がスケートをはいて氷上で弓を射る訓練を行っていた。 イギリスの首都ロンドンを流れるテムズ川は,頻繁に凍結した。 小氷河時代、ミニ氷河期ともいう。 この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。 |
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エドワード3世 |
14世紀イギリス(イングランド)のプランタジネット朝国王(在位1327~77年)
父はエドワード2世で母がフランスのフィリップ2世の娘(イザベル・ド・フランス)であったので、カペー朝断絶に際して、フランス王位の継承権を主張した。 1328年にヴァロワ朝初代の新フランス国王フィリップ6世が即位すると、いったんそれを認めたものの、1337年10月7日それをとり消し、その約二ヶ月後にフランス国王に挑戦状を発した。 1339年、フランスに侵入し、フィリップ6世軍と戦闘を開始、百年戦争が勃発する。 |
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マラッカ王国 |
14世紀末にマラッカ海峡に面したマレー半島とスマトラ半島にまたがる地域に成立したイスラーム教国。
インド洋と南シナ海の中継貿易を行い、東南アジア最大の貿易拠点として繁栄した。 1511年にポルトガルに征服され、王家はジョホールに逃れた。 17世紀中ごろにはオランダ、次いでイギリスがそれぞれ進出し、かつてマラッカ王国が支配した地域は、1842年の両国の協定でマレー側がイギリス、スマトラ側がオランダに分割された。 |
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バルトロメ・デ・ラス・カサス |
(1484年8月24日 - 1566年7月17日)
15世紀スペイン出身のカトリック司祭、後にドミニコ会員、メキシコ・チアパス司教区の司教。 当時スペインが国家をあげて植民・征服事業をすすめていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発、同地におけるスペイン支配の不当性を訴え続けた。 主著に『インディアス史』『インディアス文明誌』などがあり『インディアスの破壊についての簡潔な報告(スペイン語版、英語版)』でも有名。 生前から激しい批判を受け、死後も相反する評価を受けることが多かった。 |
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フランシスコ・ザビエル |
1506年 ナバラに生まれる
1525年 パリ大学に留学 1534年 イエズス会を創設 1542年 ジョアン3世(ポルトガル王)の依頼でインド、東インド諸島各地で宣教をはじめる 1549年 鹿児島に来航し、日本各地で初めてキリスト教を布教する 1552年9月 中国での宣教のため上川島へ行くが、入境が思うようにいかず 1552年12月3日 病を発症し、上川島でこの世を去った |
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バロック様式 |
16世紀から18世紀初頭にかけてヨーロッパ各国に広まった美術・建築・文化の様式。
曲線や楕円が多く用いられ、豪華な装飾が特徴。 建築では、バチカン市国のサンピエトロ大聖堂やフランスのベルサイユ宮殿が代表的。 「バロック」は、過剰な装飾を比喩したポルトガル語「barroco(歪んだ真珠)」の転とされる。 |
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スレイマン1世 |
オスマン帝国第10代のスルタン(イスラム王朝の君主の称号)
1520年即位。 46年間の治世は帝国の最盛期であった。 内政面では封建制度・教育制度・法制を確立し,正規軍を増強し,文運の隆盛を招いた。 外交面では,1521年のベオグラード,1522年のロードス島攻略に始まる13回の遠征を行い,とくに1529年のウィーン包囲はヨーロッパ世界を震撼させた。 16世紀中期のヨーロッパ政局に大きな発言力をもった。 |
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サファヴィー朝 |
16世紀から18世紀前半にかけてペルシア (現在のイランを中心とした地域)を支配したイスラーム王朝(1501年 - 1736年)
首都のイスファハーン(エスファハーン)は、画像あの位置 全盛期のシャー(王)は、アッバース1世 |
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イグナティウス=ロヨラ |
スペインのバスク地方の名門貴族に生まれ、26歳までは騎士として世俗の気ままな生活を送っていた。
1521年、フランスとの戦いで足を負傷し、治療の間に聖人伝を読んで宗教心に目覚めたという。 1540年、教皇パウルス3世から修道会としての承認をうけ、イエズス会を設立、ロヨラがその総長となった。 これが本格的な対抗宗教改革運動の推進母体となり、多くのキリスト教宣教師がスペイン・ポルトガルの海外領土拡大と結びついて、世界に派遣されていった。 |
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第1次 ウィーン包囲 |
1529年9月に始まった包囲戦。
オスマン帝国のスレイマン1世は、神聖ローマ帝国のカール5世がボヘミア・ハンガリーの王位を継承したことに対して圧力を加えるため、オーストリアのハプスブルク家の拠点ウィーンを攻撃した。 オスマン軍はイェニチェリ軍団と常備騎兵軍団(シパーヒー)、砲兵などからなる約21万の兵力を擁した。 ウィーン防衛はカール5世の弟フェルディナンドが、5万数千軍で固めていた。 しかし、オスマン軍の頼みの大砲が輸送困難で到着せず、さらに補給も困難になり、冬が近づいてきたのでスレイマン1世は10月14日に撤退を決断した。 |
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マテオ=リッチ/利瑪竇(イタリア人) |
1571年イエズス会に入会。
東方布教を志して78年ゴアに,82年マカオに到着,翌年両広総督の許しを得て広東の肇慶に定住。 万暦17 (1589) 年韶州に移って布教に努め,同26年入京したが,京師に長く滞在することを許されず,同27年以後は南京に住んだ。 万暦帝に自鳴鐘,西洋琴などを献上し,同29年には京師の定住と会堂の建設を許され,西洋学術書の翻訳とともに信者の指導に尽した。 信者には徐光啓,李之藻などの官僚読書人があり,著書には『天主実義』『交友論』の漢文著述のほか,信者の協力を得てユークリッド幾何学を訳した『幾何原本』,中国最初の世界地図として有名な『坤輿万国全図』などがある。 |
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ユグノー戦争 |
1562年~98年にフランスで展開された、新教派と旧教派の内戦である宗教戦争の一つ。
フランスでは単に「宗教戦争」(Guerres de religion)という。 宗教改革者の一人、カルヴァンはフランスを逃れてジュネーヴで改革にあたったが、その思想は早くからフランスに影響を与え、カルヴァン派の新教徒がフランスでも増加していった。 |
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薩摩藩の琉球侵攻 |
江戸幕府から琉球征討を許された薩摩藩島津氏は1609年3月、総勢3千人の軍勢で鹿児島を出航。
奄美大島や徳之島、沖永良部島を執に征服した。 4月初めには沖縄本島の首里城を陥落させ、琉球王国の尚寧王は降伏した。 琉球王国は薩摩藩の支配下に置かれたが中国との交易は続け、独立国の体裁を維持。奄美群島は薩摩藩の直轄領となり、島民は藩財政を賄うためサトウキビ作りを強要され、「黒糖地獄」と呼ばれる過酷な収奪を受けた。 |
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タージ・マハル |
インド北部アーグラにある、インド・イスラーム文化の代表的建築、世界一美しい墓として知られる。
ヒンドゥー教国インドにおいて栄華を極めたイスラム王朝、ムガル帝国 第5代皇帝 シャー・ジャハーンが、亡くなった最愛の妻(王妃)のために建造した。 1632年から1653年まで22年の歳月をかけて造営(建設)されました。 |
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エンゲルベルト = ケンペル |
1651年,ドイツ北部に生まれた。
各地で学んだのち,当時「世界の半分」とよばれるほど繁栄していたサファヴィー朝の都イスファハーンに医師として滞在した。 ここでの出会いから,オランダ東インド会社の船医として勤務するようになった。 そして1690年,長崎に到着した。 以後,約2年間の滞在中に江戸を2度訪れ,将軍徳川綱吉にも会った。 |
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『日本誌』 |
エンゲルベルト = ケンペルが執筆した書物。
17世紀末に日本に渡った際、日本での見聞をまとめたものである。 エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。 江戸時代の日本は,対馬藩による朝鮮との貿易など,いくつかの貿易の窓口で世界につながっていた。 しかし,そこには幕府による厳しい制限があり,オランダ東インド会社の人々もふだんは長崎の出島から出ることができなかった。 このような経験を書き残したものが,のちに『日本誌』として出版された。 |
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ヴェルサイユ宮殿(ベルサイユ宮殿) |
1682年にフランス王ルイ14世(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。
パリの南西22キロに位置する、イヴリーヌ県ヴェルサイユにある。 主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。 バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。 |
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第2次 ウィーン包囲 |
1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦。
オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。 |
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名誉革命 |
1688~89年イギリスで行われた革命。
国王ジェームズ2世が追放され,オランニェ公ウィレム (ウィリアム3世 ) と妃メアリー (メアリー2世 ) が王位についたが,流血をみずに達成されたためこの名で呼ばれた。 1685年即位したジェームズ2世は,審査法の適用免除により旧教徒を官職に登用し,信仰自由宣言を発して日曜日にそれを説教壇で朗読することを強制するなど,カトリック政策を推し進めたため,国民の不満は高まった。 |
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ネルチンスク条約 |
17世紀後半、ロシアのピョートル1世(大帝)は、シベリアへの進出を積極的に進め、ロシアの探検家や商人が満州地方の北辺に出没し始め、黒竜江(アムール川)流域で毛皮や金を奪う動きを示した。
それに対して、清朝は、三藩の乱で北方の防備が手薄になっていたが、乱を平定した康煕帝は北方に目を向け、1685年に軍隊を送ってロシアが建設していたアルバシンの城塞を攻撃、その進出を抑えようとした。 3年間の戦闘を経て、康煕帝はピョートル大帝に親書を送り国境協定を提案した。 両国の代表は1689年、ネルチンスクで会談し、ネルチンスク条約として調印した。 |
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大西洋三角貿易 |
17~18世紀のヨーロッパ諸国が行っていた、ヨーロッパ本土とアメリカ大陸および西インド諸島とアフリカ大陸を三角形に結ぶ、大西洋上の貿易。
特にイギリスからでた船が工業製品をアフリカにもってゆき、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北米大陸に運び、そこからタバコや綿花などの産物を積み込んでイギリスに帰ってくるという、空荷状態をなくして利益を上げようとしたものが有名。 イギリスはこの三角貿易の利益を蓄積し、産業革命を推進したとされている。 イギリスに生活革命をもたらしたが、黒人差別問題の原因ともなった。 |
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ヴォルテール(本名:フランソワ=マリー・アルエ) |
パリ生れのフランスの作家,思想家。
若くして文筆の才をもてはやされたが,摂政オルレアン公の風刺詩を書いたため1717年バスティーユに投獄された。 翌年に出獄,悲劇《オイディプス》が初演されて成功。 1726年にロンドンへ渡り,英国の議会政治,経験主義に影響を受ける、1729年に帰国。 シャルル12世伝,悲劇《ザイール》に次いで発表した哲学書簡(1734年)で再びパリ追放になり,愛人シャトレ侯爵夫人とシレーにのがれる。 その後一時ベルリンのフリードリヒ2世の侍従となったが,1759年以後はスイス国境近くのフェルネーに住み,カラス事件では3年間の努力でカトリックの陰謀・殺人をあばいた。 |
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啓蒙思想(啓蒙主義) |
従来の封建社会の中でのキリスト教的世界観に対して、合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指した思想。
神,理性,自然,人間に関する観念が一つの世界観に統合され,多くの賛同者を得て,芸術,哲学,政治に革命的な発展をもたらした。 17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった。 フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。 ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代と言う。 |
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アダム=スミス |
(1723年6月5日 - 1790年7月17日)
スコットランド生まれ イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者 主著 倫理学書『道徳感情論』(1759年) 経済学書『国富論』(1776年) ・国富論(諸国民の富) 富の源泉は人間の労働であり(労働価値説)、個人の経済活動を自然のまま、自由に放任しておくこと(自由放任主義/レッセ・フェール)が富を拡大するという自由主義経済理論を「見えざる手」という言葉を用いて説き、古典派経済学の基本的文献となった。 それまで絶対主義政府が採っていた重商主義による保護貿易政策は見直されるようになり、1830年代の自由貿易主義への転換がもたらされた。 |
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ロバート・クライヴ |
(1725年9月29日 - 1774年11月22日)
イギリス東インド会社の書記としてマドラス(現チェンナイ)で役人生活を送っていたが、1750年代に軍隊に入り軍功をあげ、東インド会社軍の司令官となった。 1757年、プラッシーの戦いでフランスの支援を受けたベンガル太守軍を破り、フランスの進出を抑え、イギリスのインド支配の基礎を築いた。 帰国後はインドでの強引な振る舞いと巨額の資財を蓄えたことに非難がわき起こり、議会に喚問されることとなった。 その結果無罪にはなったが財産は没収され、1774年、クライヴは世間の冷たい目と病苦のために、ナイフで自らの喉を切って生を断った。 |
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コンバウン王朝(アラウンパヤー朝) |
後にミャンマーとなるビルマ最後の王朝(1752年 - 1886年)
シュエボウのアラウンパヤー王がモン族(タライン人)の侵略を防ぎ,建国。王都はシュエボウ,アバ,アマラプーラ,マンダレーと移った。 1760年にタイのアユタヤ朝を攻撃し,18世紀末までにアラカン,マニプル,タイと戦争を続け,北からの清朝中国軍の侵入に抵抗したが,国民は重税に苦しんだ。 19世紀に入ると第1次ビルマ戦争,第2次ビルマ戦争でイギリス軍に領土を奪われ,第3次ビルマ戦争で王都を占領されてイギリス領インドの一州となった。 |
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ムハンマド・アリー(メフメト=アリ) |
(1769年? - 1849年8月2日)
19世紀エジプトの最重要人物。 ナポレオンのエジプト遠征の混乱時に台頭し、1805年、オスマン帝国のエジプト総督となり、実質的な独立政権を立てた。 1807年にはマムルークを一掃して実権を握ってエジプトの近代化政策を推進した。 その間、周辺のアラビア半島、スーダンに勢力を伸ばす。 1831年からはエジプト=トルコ戦争を戦い、一時はシリアも支配下に入れるが、西欧列強の干渉を受けてシリアは放棄したが、1841年にエジプト・スーダンの総督の地位の世襲化を国際的に認められ、エジプトの「ムハンマド=アリー朝」(~1952年)の始祖となった。 |
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西山(タイソン)党の乱 |
1771年に、ベトナムの中部西山郡で起こった反乱。
ベトナムを一時統一支配。 ベトナムの黎朝末期,クイニョン (帰仁) のタイソン村の阮氏 3兄弟 (阮文岳,阮文呂,阮文恵) によって起された反乱。 長兄の阮文岳は徴税吏であったが,税金を賭博に使い,タイソンの山に逃れ 1771年反乱を起した。 当時この地を支配していた阮氏の圧政に苦しんでいた農民大衆の支持を得て反乱は急速に拡大し,まず阮氏を,次いで北方の豪族である鄭氏およびその上に虚位を保っていた黎朝をも滅ぼした。 |
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ボストン茶会事件 |
1773年12月16日,アメリカのマサチューセッツ湾植民地の住民がイギリスの茶税法に反対してボストン港に停泊中の東インド会社の船から茶箱を海に投棄した事件。
米独立戦争のきっかけになった。 茶税法:1773年にイギリスのノース内閣が制定した、植民地商人による茶の密貿易を禁じ,茶の滞貨に苦しむ東インド会社に茶の独占販売権を与えた税法。 |
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雍正帝(ようせいてい) |
清朝の第5代皇帝(在位1722~35年)
統治期間はわずか13年だが、厳格な政治で清朝の体制の維持を図り、清朝の全盛期の皇帝の一人である。 内政では康煕帝に始まる地丁銀制を全国に広め、また奴隷身分をなくして課税対象とした。 一方で清朝の支配を批判する言説には厳しく弾圧し、文字の獄が展開された。 1723年には、キリスト教布教を禁止した。 |
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ジョージ・ワシントン |
アメリカ合衆国の軍人、政治家、黒人奴隷農場主であり、同国の初代大統領である。
当初、英国の植民地であったアメリカ東部13州の独立運動で指導的な役割を果たし、1776年に13州が英国から独立した折には、連邦政府の初代大統領職を務めた。 生年没年 1732年2月22日~1799年12月14日 大統領任期(初代) 1789年4月30日~1797年3月4日 |
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連邦主義(フェデラリズム) |
主権の多くを中央政府から地方政府に委譲し、複数の邦(国家)の連合体としての国家(連邦)を形成する事を目的とする政治思想を指す。
アメリカ合衆国の憲法制定過程で、統一的な憲法の下で中央集権的な連邦政府をつくるべきであるという連邦派(フェデラリスト)と、連邦政府の権限は制限して州の自治権を最大限認めるべきであるとする反連邦派(アンチ=フェデラリスト)が鋭く対立したが、1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法では、両派の妥協が成立、一定の州の自治権を認めるものの、かなり強い権限をもった中央政府として連邦政府を発足させることとなった。 |
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1812年ロシア戦役/ロシア遠征/モスクワ遠征 |
1812年5月、ナポレオン1世が40万の軍を率いて行った大遠征。
ロシアのアレクサンドル1世が、ナポレオンの出した大陸封鎖令に反して、イギリスに対する穀物輸出を続けていることに対する制裁が口実であった。 ロシアの「冬将軍」と言われる厳しい冬の寒気に悩まされ大きな犠牲を出し、遠征は失敗に終わった。 この遠征の失敗は、翌年10月のライプチヒでの敗北とともにナポレオン没落の決定的要因となり、1814年に退位へ追い込まれて、地中海のエルバ島に流された。 |
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ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世) |
(1808年4月20日 - 1873年1月9日)
ナポレオン1世の退位とともに亡命生活に入り、七月王政期にフランスに戻り、1848年の二月革命後の第二共和政下での大統領選挙に出馬して当選し、1851年のクーデタで実権を握り、同年末皇帝に即位しナポレオン3世となる。 その後第二帝政期のフランスを統治、産業資本家、農民の幅広い支持でボナパルティズムと言われる独裁を行う。 その間、クリミア戦争など積極的な対外政策を展開して国民的支持を受けたが、普仏戦争(ふふつせんそう)に敗れて1871年に退位した。 |
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ウィーン会議 |
フランス革命,ナポレオン戦争の後,ヨーロッパの政治秩序再建のため,1814年9月~15年6月までウィーンで開かれた列国会議
プロシア,ロシア,イギリスの四大国が事実上の決定権をもち,ほか関係諸国の代表が列席した 敗戦国フランスも参加し,巧みに自国の利益を守った (1) オーストリアはベネチア,ロンバルディアを獲得 (2) プロシアはライン川下流地域やザクセンの一部を獲得 (3) ロシアはポーランドを獲得 (4) イギリスは植民地を拡大 (5) オランダはベルギーを合併 (6) スイスは永世中立国となる (7) ドイツ諸邦はドイツ連邦を結成する などの決定が行われた |
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正統主義 |
ウィーン会議に敗戦国フランスの代表として参加したタレーランは、他の4国の闇取引をしてフランスの領土を侵害することを警戒し、会議は公法の原則にしたがって開催すべきであるとし、各国の領土は正統な君主のものであると主張し、フランス本土の解体を阻止しようとした。
その「正統」とは絶対王政の王位の復活と捉えられているが、タレーランが守ろうとしたのはフランスの旧国土であった。 各国代表も、それぞれ領土拡張をめざして取引をしようとしたため「会議は踊る」状態で話がまとまらなかったが「正統主義」というある種の大義名分が打ち出されたことによって「革命前の国境に戻す」という原則に収斂していった。 |
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ワーテルローの戦い |
エルバ島を脱出してパリに帰還したナポレオンが、再起を期して1815年6月、イギリス・プロイセンなどの連合軍と戦った戦争。
ワーテルローは現在のベルギーのブリュッセル郊外の村。イギリス軍を率いたのがウェリントン将軍。 ナポレオンは前哨戦となるリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍に勝利したものの、6月18日の戦いで大敗し潰走を余儀なくされる。 ナポレオン戦争はこれで終結し、ナポレオンはセントヘレナ島に流され、再起できなかった。 また、この戦いを以て英仏の第2次百年戦争も終わりを告げた。 |
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穀物法 |
起源は中世にあるが,1815年ナポレオン戦争後に地主保護のため安価な外国産穀物の輸入を禁じたものが最も有名。
地主や農業資本家の利益を守るねらいから定められた保護貿易政策であり、穀物価格は高くなり消費者(都市住民、労働者)が反発した。 そのため、貿易も停滞して工業製品(綿織物など)の輸出が阻害されたので、産業資本家も強く反発するようになった。 1839年以来、コブデン,ブライトら自由貿易論者を中心とする反穀物法同盟が反対運動を展開し,1846年に廃止された。 |
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アルフレッド・ノーベル |
1833年10月21日 - 1896年12月10日
ダイナマイトの発明で知られるスウェーデンの化学者、発明家、実業家。 ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。 350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。 ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれた。 遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。 自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられた。 |
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タンジマート(恩恵改革) |
タンジマーティ・ハイリエの略語
1839年のギュルハネ勅令発布から1876年制定のオスマン帝国憲法(通称、ミドハト憲法)にいたるまでの、オスマン帝国がおこなった諸改革あるいは改革運動の総体 タンジマート諸改革は、トルコが神権的なイスラーム国家から近代的法治国家、西ヨーロッパをモデルとした多民族国家へと変貌する第一歩であった |
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アヘン戦争(阿片戦争) |
清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から1842年まで行われた戦争。
イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 |
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香港島の割譲/香港占領 |
アヘン戦争の講和条約として1842年に締結された南京条約で香港島がイギリスに割譲されイギリスの直轄植民地となった。
(香港島は、中華人民共和国の香港にある島で、香港で最初の市街地であるヴィクトリア市が築かれた島) それ以後、イギリスはその対岸九竜半島に租借地などの形で植民地化を進め、150年間の支配を続けた後、1997年に中国に返還された。 現在は中華人民共和国の主権下にあるが、特別行政区として一国二制度が認められている。 |
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ルイ = フィリップ |
1830年の七月革命によってオルレアン朝のフランス国王となった(在位:1830年 - 1848年)
即位当初は自由主義貴族出身の国王として人気がありましたが,次第に民衆と対立するようになり,1848年の二月革命で退位したため,結果として最後のフランス国王になったのです。 |
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1848年のフランス革命(二月革命) |
七月王政のもとで、普通選挙の要求を掲げた選挙法改正運動が強まる中、ギゾー内閣はそれを拒否続けていた。
政府によって集会が禁止されたため、普通選挙を要求する人びとは改革宴会という形で運動を続けたが、政府は宴会禁止令をだして、それも取り締まろうとした。 1848年2月、激昂したパリの市民、労働者が蜂起して、ルイ=フィリップを退位に追い込み、七月王政を倒し、共和政を宣言、臨時政府が成立した。 |
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セシル・ジョン・ローズ |
(1853年7月5日 - 1902年3月26日)
イギリス生まれであるが、南アフリカにて資本家および政治家として活躍した人物。 二つ名は「アフリカのナポレオン」 アフリカ大陸に彼が立っている風刺画で有名である。 19世紀末、イギリスのケープ植民地現地政府の首相として、植民地拡大を強行、ローデシアを建設した。 その強引な手法が批判され1896年に辞任したが、その路線は本国植民地相ジョセフ=チェンバレンが継承し、南ア戦争(1899~1902年)へとつながった。 |
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日米和親条約(神奈川条約) |
幕末の嘉永7 (1854) 年3月3日神奈川で調印されたアメリカ合衆国との最初の条約。 12ヵ条から成る。
1853年6月浦賀に来航した M.ペリーが江戸幕府に強硬な交渉を行なって開国を要求し,いったん退去,次いで1854年1月に江戸湾に入って回答を促した。 老中阿部正弘らは戦争を回避するためペリーの要求に応じることを決めて和親条約が締結された。 関税自主権の放棄や領事裁判権承認など、日本に不利な不平等条約であった。 |
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アイグン条約(愛琿条約) |
1858年、ロシアと清の間で締結された国境協定。
清はロシアの黒竜江(アムール川)左岸の領有を認め、沿海州(ウスリー川以東)は両国の共同管理とした。 ロシアは、東シベリア総督 ムラヴィヨフが強く清朝に迫り、アロー戦争で窮地に立つ清が屈辱的な内容を呑まざるを得なかった。 清は後にこの条約を否認したが、1860年の北京条約で内容を確認することとなる。 |
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セオドア=ローズヴェルト(ルーズベルト) |
(1858年10月27日 - 1919年1月6日)
アメリカ合衆国の軍人、政治家で、第25代副大統領および第26代大統領である。 共和党のマッキンリー大統領の副大統領をつとめていたが、1901年、大統領が暗殺されたため、憲法の規定により大統領に昇格した。 在職1901~99年。 マッキンリーと同じく、19世紀末から20世紀初頭のアメリカ帝国主義政策を推進した大統領である。 |
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ホセ・リサール |
フィリピン独立運動の初期の指導者
1887年にノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)、91年にエル・フィリプステリスモを出版、スペインの支配を告発 92年、社会改革を目ざすフィリピン民族同盟を結成したが、ただちにミンダナオ島に追放された 96年、キューバへの軍医としての派遣を許可され、ミンダナオ島を離れた 8月、独立派の武装組織が蜂起しフィリピン革命が始まると、リサールも指導者の一人として逮捕され簡単な裁判にかけられた リサールはこの蜂起には直接関わっていなかったが有罪とされ、12月30日に銃殺刑となった この日は、国民的英雄リサールの命日としてフィリピンの祭日となった |
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農奴解放令 |
1861年3月にロシア皇帝のアレクサンドル2世が発した法律および条令である。
農奴は、土地に縛り付けられ、両種である貴族に、賦役や年貢を負担していた。 このようなロシアの農奴制がツァーリズムを支えていたが、19世紀に入りアレクサンドル1世やニコライ1世の時代にはその廃止を求める声も強くなってきたが、実現しないままであった。 クリミア戦争に敗れたアレクサンドル2世は、「上からの改革」によるロシア社会の近代化を必要と考え、1861年2月に「農奴解放令」を公布した。 |
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レ・ミゼラブル |
ヴィクトル・ユーゴーが1862年に執筆したロマン主義フランス文学の大河小説
ミュージカルにもなっている 1本のパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯を描く作品である。 作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年からルイ18世・シャルル10世の復古王政時代、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いており、さらに随所でフランス革命、ナポレオンの第一帝政時代と百日天下、七月革命とその後勃発した六月暴動の回想・記憶が挿入される。 |
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第一インターナショナル(国際労働者協会) |
1864年9月28日、マルクスらの指導によってロンドンで創立された世界最初の国際的な労働者組織。
資本主義社会が急速に成長する中で国境を越えて労働者の権利を守り、その生活を向上させる運動の中で大きな役割を果たした。 マルクスとバクーニンの思想的対立、パリ=コミューン後の弾圧の強化などにより1872年に分裂し、1876年に活動を停止した。 後に結成される社会主義者や労働者の組織(第二、第三インターナショナル)と区別して、第一インターナショナルと呼ばれる。 |
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最初の大陸横断鉄道(アメリカ) |
最初の大陸横断鉄道は、アメリカ合衆国のネブラスカ州オマハとカリフォルニア州サクラメントの間を結んだ大陸横断鉄道である。
1869年5月10日に開通し、西部開拓の促進に大きく貢献した。 |
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江華島事件(こうかとうじけん) |
1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。
朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。 日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。 日朝修好条規締結の契機となった。 |
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アルベルト・アインシュタイン |
1879年3月14日 - 1955年4月18日
ドイツ生まれの理論物理学者である 特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボーズ=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績などにより、世界的に知られている偉人である。 「20世紀最高の物理学者」や「現代物理学の父」等と評され、それまでの物理学の認識を根本から変えるという偉業を成し遂げた。 1921年のノーベル物理学賞を受賞。 |
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エッフェル塔 |
フランス パリのセーヌ河畔に立つ鉄骨塔。
1889年パリ万国博覧会のおりに建てられた鉄骨記念建造物。 高さ 321m (送信アンテナを含む) ,設計は A.G.エッフェル。 鉄骨のみを組立てたトラス構造によるこの建造物は,力学の解析に基づく合理的な形態,それを支える圧延鋼技術の完成など,当時の建築技術の最高水準を示すとともに,単純明快な近代建築の美的表現の先駆をなした。 |
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婦人参政権/男女平等選挙権 |
現代では、女性参政権とも言われる。
18世紀からフランスで始まり、19世紀には労働運動・社会主義運動と結びついて運動が本格化した。 世界で最初に女性参政権を認めたのは、1893年のニュージーランドであった。 ついでオーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、ソビエト=ロシア(1917年)、カナダ・ドイツ(1918年)などと続く。 それに続いたのが次の諸国であった。 |
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・イギリス
1828年の第5回選挙法改正で男女平等の普通選挙が実現した。 ・アメリカ 12の州が1914年までに婦人参政権を認めていたが、修正憲法19条が成立したのは大戦後の1920年であった。 ・フランス 女性参政権の運動は早くから起こっていたが、実現したのは非常に遅く、第二次世界大戦後の1945年4月30日に婦人参政権が採択された。 ・日本 婦人参政権は1945年12月の改正選挙法で実現し、翌年4月の総選挙では婦人議員が39名当選した。 |
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下関条約(日清講和条約/馬関条約) |
日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより、1895年4月17日に下関の春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て調印された条約である。
内容は、 (1)朝鮮の独立をみとめ, (2)清国が、台湾・遼東半島・澎湖諸島を日本に割譲し (3)清国が、賠償金2億両テール(約3億1000万円)を日本に支払う などであった。 |
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門戸開放宣言(自由貿易政策) |
1899年と1900年の二度にわたり、アメリカ国務長官ジョン=ヘイの名で発表した、中国に関する門戸開放・機会均等の原則を求めた宣言。
アメリカは1860年代の南北戦争のため、中国大陸への進出が遅れたが、1898年に米西戦争の勝利によってフィリピンを獲得、そこを足場に中国に進出しようとした。 しかし、すでに1898年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を設けるなど、中国分割が進んでいた。 そこで1899年、アメリカは国務長官ジョン=ヘイが声明を発表し、清国において通商権・関税・鉄道料金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきであると主張した。 |
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義和団事件(義和団の乱/清国事変) |
日清戦争後、義和団を称する秘密結社が生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。
各地で外国人やキリスト教会を襲った。 1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。 だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。 |
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スカルノ |
(1901年6月6日 - 1970年6月21日)
インドネシアの独立運動家。 オランダからの独立を目指し、インドネシア国民党を結成、日本占領時には日本軍に協力。 1945年8月17日にインドネシア共和国独立宣言を発する。 独立を認めないオランダとの独立戦争を指導、1950年にインドネシア共和国の単一国家化を達成し初代大統領となる(在任:1945~1967年) 国内ではナサコム体制といわれる独裁制をとり、世界では第三世界の指導者として活躍した。 |
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三民主義 |
1906年に孫文が発表した中国革命の基本理論
中国国民党の基本綱領として採用され、中華民国憲法にその趣旨が記載されている 「民族主義・民権主義・民生主義」の三原則をいう 民族主義は満州族である清王朝を打倒して民族の独立をめざす事を意味する 民権主義は主権在民で五権憲法による民主主義を達成した共和国設立を意味する 民生主義は経済的な不平等を改善し、国家主導を近代化と社会福祉を充実させることを意味する |
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クワメ・エンクルマ |
(1909年9月21日 - 1972年4月27日)
政治家。ガーナ初代大統領。 ガーナの独立運動を指揮し、アフリカの独立運動の父といわれる。 マルクス主義者。 第二次世界大戦後のアフリカ独立運動を指導し、イギリスに対して「即時自治」を求め、ストライキやボイコットなどの非暴力不服従運動を展開、逮捕されたが1951年には総選挙を実施させ、自らも獄中から立候補して当選、イギリスとの独立交渉に当たった。 1957年、ガーナ共和国として独立を達成し、首相に就任、さらに大統領となった。 |
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無制限潜水艦作戦 |
戦争状態において、潜水艦が、敵国に関係すると思われる艦艇・船舶に対して目標を限定せず、無警告で攻撃する作戦。
ドイツ帝国による、連合国及び中立国の連合国向け艦船(客船を含む)への攻撃が有名。 ドイツは、1914年の開戦当初は、中立国船舶への攻撃を禁止し、攻撃前の事前警告を潜水艦に義務付けていた。 ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を最初に実施したのは1915年2月で、イギリス海軍の北海機雷封鎖による事実上の無制限攻撃への不満や、制限による潜水艦の運用難などから、イギリスの海上封鎖と周辺海域での無警告攻撃を宣言した。 ルシタニア号事件などの発生から、わずか半年で中止された。 |
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ルシタニア号事件 |
第一次世界大戦のさなか、イギリスの豪華客船ルシタニア号はリヴァプールからニューヨークに向かって航行中、1915年5月7日にドイツの潜水艦Uボートによって、アイルランド沖で無警告で撃沈され、1198人が犠牲となった。
その中に128名のアメリカ人がふくまれていたので、当時まだ参戦していなかったアメリカ国内で、世論が開戦に傾くきっかけとなった。 そのような状況の中でウィルソン大統領はドイツに対して強硬な抗議を行った。 ドイツ政府はこれに対し、ルシタニア号は補助巡洋艦が偽装したもので、カナダ兵と戦争器材が搭載されているので、アメリカの中立義務違反であると反論した。 |
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十四か条の平和原則 |
1918年1月8日、アメリカ大統領 ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した平和原則である。
アメリカは前年1917年3月の参戦によって協商国(連合国)側の勝利を決定づけ、この演説によって第一次世界大戦の講和原則、ひいては大戦後に実現されるべき国際秩序の構想を全世界に提唱した。 この提案はドイツの降伏を引き出すことになり、同年11月、大戦の休戦協定において講和の基本原則とすることが約された。 翌1919年1月に開会されたパリ講和会議で、米国全権代表となったウィルソンはこの十四か条をアメリカの中心的主張とした |
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ブレスト=リトフスク条約 |
第一次大戦末の1918年3月3日、ロシアのソヴィエト政権がドイツおよびその同盟国と結んだ講和条約。
新生のソビエト政権は革命の防衛に追われていたため、大幅な領土喪失を認めたが、ベルサイユ条約で無効となった。 |
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戦時共産主義 |
1918~21年、ロシア革命が反革命と干渉によって危機となったとき、レーニンが採用した強制的な革命防衛政策。
「すべてを戦線へ」をめざし、まず農民に穀物の余剰生産分を強制的に供出させる「穀物独裁」が実施され市民の食糧は配給制となった。 生産物を隠匿した農民は逮捕され、シベリアに送られるなどの弾圧を受けた。 さらに工場国有化の方針が大工場から小工場にまで拡大された。 その結果、貨幣は必要ないものとされ、労働者の報酬は現物となり、私企業は一切禁止された。 レーニンによって共産主義への必然的な飛躍と位置づけられたが、現実には農民、労働者の労働意欲を著しく後退させ、生産の停滞を招いた。 |
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シベリア出兵 |
1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
社会主義を封じるという説明は抽象的である。 より具体的には帝国時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いがあった。 |
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五・四運動/五四愛国運動/5・4運動 |
1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した、中華民国の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動。
抗日・反帝国主義だけではなく反封建主義の側面もあった。 |
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ヴェルサイユ条約 & ヴェルサイユ体制 |
1919年6月28日、パリ講和会議の結果、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約
これ以降のこの条約に基づくヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制というが、敗戦国ドイツに苛酷な負担をしいたこの体制は、1936年にドイツのヒトラー政権がロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐することによって崩壊する。 |
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非暴力・不服従(サティヤーグラハ) |
ガンディーのサティヤーグラハ(真理の把持)の思想にもとづく、イギリス植民地支配に対するインド民衆の抵抗手段。
非暴力は、暴力的な手段に訴えずに、愛によって敵を説得する、ヒンドゥー教の古典『バガヴァッド=ギーター』などから続く伝統的な不殺生(アヒンサー)に基づく思想。 不服従とは、不当な権力に対して、その命令や法令に従わず、納税を拒否し、公職を辞任するなどの手段を通じて戦うこと。 その理念に基づいた運動は、ガンディーが名付けた用語によってサティヤーグラハ運動とも呼ばれ、1919~22年の第1次非暴力・不服従運動と、1930~34年の第2次非暴力・不服従運動とが展開された。 |
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第1次 非暴力・不服従運動 |
イギリスが第一次世界大戦でのインドの戦争協力に対する見返りとして自治を約束したにも関わらず、一部自治の承認しかしなかった事や、ローラット法という人権を無視した運動取締法を制定した事に対する民衆の怒りから始まった。
ガンディーは1919年4月6日に全国的なハルタール(同盟休業)を提唱し、断食などの非暴力によって抵抗を呼びかけた。 しかしイギリス政府の弾圧によりインド民衆が多数虐殺されるアムリットサール事件が起き、一時中断された。 同年末にガンディーはイスラーム教徒のカリフ擁護運動であるヒラーファト運動との連携を提唱し、学校教育や選挙のボイコット、イギリス製品の排斥などに取り組んだ。 |
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第2次 非暴力・不服従運動 |
1927年の憲政改革調査委員会(サイモン委員会)に対する反対運動から、インドの反英闘争が再び活発になり、「サイモン帰れ!」の声が高まった。
1930年1月26日、全国各地で集会が開かれ、ガンディー起草の「独立の誓い」が朗読された。 それを認めないイギリスに対して、ガンディーは抗議行動として塩税法への挑戦を提起した。 生活必需品で天然物である塩に外国政府が税をかけているという不正を人びとに明らかにし、植民地支配の不当性を告発する行動であり、その「塩の行進」は多くの民衆の支持を受けた。 |
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上海クーデター/四・一二事件 |
1927年4月12日、北伐途上の蔣介石が上海で行った反共産党のクーデター。
四・一二事件(しいちにじけん)ともいわれる、共産党に対する大弾圧。 武漢政府はなおも共産党員が残ったが、同年7月には離脱し、第1次国共合作はこれによって瓦解した。 |
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不戦条約(パリ条約/パリ不戦条約) |
第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。
1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。 不戦条約は期限の定めがなく,今日でも効力を有しており,約60の国が当事国となっている。 |
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エンパイア・ステート・ビルディング |
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区にある超高層ビル。
「世界一高いビル」の称号を奪うために1929年から急ピッチで工事が行われ、1931年に工事を終えたが、世界恐慌の影響でオフィス部分の多くが1940年代まで空室であった。 戦後は多くの人々が訪れる観光名所となり、1972年にワールドトレードセンターのノースタワーが完成するまで、世界一の高さを誇るビルとなっていた。 1986年には、アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されるなど、ニューヨークのシンボルの一つとして認知されていった。 |
高所で命綱なしの作業を行う、現代では考えられない光景
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リットン調査団 |
満州事変や満州国の調査のため、国際連盟が派遣した調査団
1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。 翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。 同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 |
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世界恐慌(大恐慌) |
1929年10月24日、ニューヨーク市場で株価が大暴落したのをきっかけに、世界的に深刻な長期不況に陥った。
米国の景気後退は33年まで続き、30年代を通じて経済は沈滞した。 国内総生産(GDP)や賃金の低下、失業率の上昇などが起こった。 また、アメリカ、ドイツ、イギリスでは鉄の生産量も低下した。 初の世界恐慌は、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こったが、通史的には上記の1929年に始まった世界恐慌をさす。 |
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ニューディール(新規まき直し政策) |
世界恐慌を克服するため、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが、1933~39年に行った一連の経済政策。
伝統的な自由主義経済の原則を大幅に修正し,連邦政府が積極的に経済に介入することを基調とした。 金本位制の廃止,銀行救済,管理通貨制の導入をはじめとし,全国産業復興法,農業調整法,労働者保護のためのワグナー法,および社会保障法などが制定され,公共事業としてのTVAが設立された。 |
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フランス人民戦線 |
1936年から1937年までフランスにて存続して「反ファシズム」を掲げたフランス社会党、急進社会党、フランス共産党など諸政党の連合政権。
1935年6月に社会党・共産党・急進社会党の三党を中心にして反ファシズム統一戦線が成立、 翌1936年1月にブルム内閣を成立させた。 フランスにおけるファシズム政権成立を阻止し、社会政策を実施したが、経済問題・スペイン不干渉政策で内部対立が激化し、1937年6月総辞職して崩壊した。 |
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二・二六事件(帝都不祥事件) |
1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件です。
事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。 主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑となり、刑はすぐに執行されました。 |
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二・二六事件が起こるまで |
事件の起こる6年前、金輸出解禁や世界恐慌により日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われました
農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきました こうしたなか、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発しました。 また不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況が生まれました。 このため、人びとは政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになりました。 こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。 |
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西安事件 |
1936年12月、東北軍の張学良が、国民党の蔣介石を西安で監禁し、国共内戦の停止を迫り、それに同意させたクーデター。
抗日民族統一戦線を結成する端緒となり、1937年の日中戦争の開始と共に第2次国共合作が成立する。 張学良は、拠点の満州を日本軍に奪われ、国民党と共に戦う決意で易幟を行ったが、蔣介石が共産党との内戦を優先させて日本軍との戦いを極力避けていることに不満を持っていた。 「蔣介石、監禁される!」というショッキングな西安事件を世界で最初に報道したのは日本の共同通信の記者として上海にいた松本重治だった。 中国政府は外電を禁止したが、共同通信は非合法の無線を持っていた。 |
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スペイン内戦 |
第二共和政期のスペインで勃発した軍事クーデターによる内戦。
マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。 内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。 フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。 |
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不干渉政策 |
1936年8月8日、フランス政府は、スペイン内戦に一切の干渉を行わず、一切の武器・軍需品をスペインに輸出しないと決定した。
フランスとイギリスは以後一貫して不干渉政策をとる。 フランスは不干渉政策をドイツ・イタリア・ポルトガルにも守らせることによってスペインを助けることになると判断し、国際会議を呼びかけた。 この三国とも表だっては内戦不介入の顔をしていたのでフランスの提案を受け入れ、ソ連も含めて9月9日に27カ国がロンドンに集まり、不干渉委員会の国際会議が開催された。 各国は原則的な不干渉に同意したが、ドイツ・イタリアは平然とそれを無視して反乱軍を支援し続けた。そ |
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独ソ戦 |
第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。
大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。 ソ連軍が西進、東欧諸国を解放しながらドイツに迫り、1945年4月にベルリンを占領、ドイツ軍が降伏して終わらせた。 当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼称。 一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。 |
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レフ・ヴァウェンサ(ワレサ) |
1943年9月29日 -
ポーランドの政治家、労働組合指導者、電気技師で、ポーランド共和国の第三共和政第2代大統領。 ノーベル平和賞受賞者(「連帯」の結党と、民主化運動の発起に対して) |
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カイロ会談/カイロ宣言 |
・カイロ会談
第二次世界大戦中の1943年11月23日~27日にエジプトのカイロで開かれた会談、連合国の戦後処理構想の一環。 ・カイロ宣言 1943年12月1日、カイロ会談の合意事項として発表された、アメリカ大統領F=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中国主席 蔣介石が署名した、無条件降伏後の日本に対する処理方針についての宣言。 内容は 1)日本は満州、台湾、澎湖島を中国に返還すること 2)日本は1914年以来獲得した全ての太平洋上の島嶼を手放すこと 3)朝鮮は、適当な時期に独立すべきであること など 後のポツダム宣言のもとになった。 |
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日本への原子爆弾(原爆)投下 |
第二次世界大戦の末期、アメリカ軍が日本に投下した二発の原子爆弾による空爆。
人類史上初、なおかつ世界で唯一核兵器が実戦使用された例。 1945年8月6日に広島市へ、1945年8月9日に長崎市へ投下された。 太平洋戦争(大東亜戦争/第二次世界大戦太平洋戦線)における日本列島での上陸直接戦闘(ダウンフォール作戦/本土決戦)を避け、早期決着のため、原子爆弾が使用されたとするのが、アメリカ合衆国連邦政府による公式説明。 国力・軍事力を世界に誇示する戦略であった、放射線障害の人体実験を行うためであった、などの説もある。 |
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国際連合 |
国際連盟に代わって,1945年10月24日の国連憲章に基づき設立された国際機構。
本部所在地はアメリカ合衆国ニューヨーク。 国際間の平和と安全を維持し,平等と民族自決の原則に基づく諸国間の友好関係の発展を育成し,国際間の経済・社会・文化・人道的問題を解決するうえでの国際協力を奨励することを目的とする。 国際連合の採決には常任理事国5カ国と非常任理事国10カ国との合同での採択で決定するが、常任理事国が拒否権を発動した場合、採択は全て否決される。 今まで、東西冷戦時代等を中心に採択で常任理事国が拒否権を発動し否決されたケースが数多くあり国連で拒否権の在り方が問題になっている。 |
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インドシナ戦争 |
日本の敗北後、支配を復活させようとしたフランス(第四共和政)とベトナム独立同盟(ベトミン)が戦った戦争。
1946年11月に本格的な戦闘が始まり、12月にはベトナム全土、さらにカンボジア、ラオスのインドシナ三国に拡大し、1954年のジュネーヴ協定での和平成立まで続いた。 なおこの間の戦争(1945~54年)を「第1次インドシナ戦争」といい、ベトナム戦争がカンボジアに拡大した1970~75年を「第2次インドシナ戦争」、さらに1978~79年のベトナムのカンボジア侵攻と中国との戦争を「第3次インドシナ戦争」という場合もある。 |
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ディエンビエンフーの戦い |
1954年5月、インドシナ戦争でフランスの敗北を決定づけた戦闘。
フランス軍はベトミン(ベトナム独立同盟)軍をタイ-ラオス国境地帯に引きつけるため、空挺部隊をディエンビエンフーに降下させ、占領した。 それに対してベトミン軍が包囲攻撃し、50日あまりの戦闘で陥落させた。 このフランス軍の敗戦は、フランス国内でも停戦の声を強くし、6月停戦を主張するマンデス=フランス内閣に代わった。 マンデス=フランス内閣はジュネーヴ会議での交渉を再開し、同年7月21日、ジュネーヴ休戦協定に調印した。 |
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平和五原則(パンチャシラ) |
1954年、チベット問題で協議した中国の周恩来とインドのネルーの間で、両国関係の5原則が合意された。
内容は、領土保全及び主権の相互不干渉・相互不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和的共存。 周恩来とネルーは、中国・インド両国だけではなく、冷戦下の世界に広く適用されるべき原則とするため、共同声明として発表した。 |
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平和十原則 |
1955年4月、インドネシアのバンドンで29ヵ国代表が参加して開かれたアジア=アフリカ会議で採択された十原則。平和五原則を拡張している。
1.基本的人権と国連憲章の尊重 2.主権と領土の尊重 3.人種と国家間の平等 4.内政不干渉 5.個別的・集団的自衛権の尊重 6.集団防衛の抑制 7.武力侵略の否定 8.国際紛争の平和的解決 9.相互協力の促進 10.正義と義務の尊重 |
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アパルトヘイト(人種隔離政策) |
かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカ共和国で 1948年から1991年6月まで続いた白人と有色人種とを差別する人種隔離制度・政策。
「分離」を意味するアフリカーンス語。 この政策は激しい国際的非難を浴び、オリンピック参加拒否・貿易禁止などの制裁を受けた。 1994年に全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。 |
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ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ |
(1918年7月18日 - 2013年12月5日)
南アフリカ共和国の政治家、弁護士 若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。 27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。 翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。 デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。 1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て大統領に就任。 |
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キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア) |
1955年のアラバマ州モントゴメリーでバス・ボイコット運動(人種差別への抗議運動)に関わり、公民権運動の指導者となる。
常に非暴力の方法をとり、ボイコット戦術や座り込みなどによる差別への抵抗を指導し、その人格と弁舌で親しまれた。 奴隷解放宣言が出されてから100周年にあたる1963年8月には画期的なワシントン大行進を成功させ、翌年の公民権法成立という成果を上げた。 1964年には、ノーベル平和賞を授与された。 この頃から深刻となったベトナム戦争の反対運動に関わるようになった。 1968年4月4日に遊説活動後の集会で、白人男性で累犯のならず者、ジェームズ・アール・レイに撃たれ死亡した。 |
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バラク・オバマ |
出生:1961年8月4日
アメリカ合衆国 第44台 大統領 (任期:2005年1月3日 – 2008年11月16日) 建国以来初めてのアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領であり、また初のハワイ州生まれ且つ初の1960年代生まれの大統領である。 「国際的な外交と諸国民の協力を強めることに対して並はずれた努力をした。特に『核なき世界』を目指すとする理念と取り組みを重視する」として、2009年10月に現職アメリカ合衆国大統領としてノーベル平和賞を授与された。 |
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アスワン・ハイ・ダム |
エジプト南部、アスワンに近いナイル川に建設された世界有数の巨大なロックフィルダム。
工事はソ連の資金、技術援助を受けて、1960年に着手され、1970年に完成。 このダムの建設により、古代エジプトの多くの遺跡(ヌビア遺跡など)が水没するため、「ダムか神殿か」の論争が交わされたが、ユネスコが中心となり、アブ・シンベル神殿の移転など、遺跡の発掘、保存が進められた。 |
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ガマール・アブドゥル=ナーセル(ナセル) |
(1918年1月15日 - 1970年9月28日)
1952年、ナギブらとともに自由将校団をひきいて王政を倒し、エジプト共和国を樹立するエジプト革命を成功させた。 エジプト革命で建設が中止されていたアスワン・ハイ・ダムの建設を再開し、建設費用獲得のために1956年7月26日、スエズ運河の国有化を宣言し、第2次中東戦争を戦う。 第三世界のリーダーとしても活躍。 1964年、第3次中東戦争に敗れ、指導力を低下させ、1970年に死去。 |
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ベルリンの壁 |
1961~89年まで西ベルリンを囲い込み,東ベルリンおよび周辺の東ドイツ地域との交通を遮断した障壁。
ドイツが東西に分裂後の 49~61年の間に約 250万人の東ドイツ市民が西ドイツに脱出。 特に熟練労働者,専門職,知識人の脱出がふえ続け,東ドイツ経済の命運を脅かす事態となった。 そこで東ドイツは,東ベルリン市民の西ベルリンへの通行を遮断する障壁を構築した。 |
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キューバ危機 |
1962年7月、極秘にソ連とキューバは軍事協定を結び、ソ連がキューバに密かに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送った。
それを偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見したアメリカがキューバを海上封鎖(隔離)して、核ミサイル基地の撤去を迫り、一触即発の危険な状態に陥り、当時のケネディ大統領(アメリカ)とフルシチョフ首相(ソ連)とで書簡でやり取りしながら、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった。 この危機を回避できなかった場合、核戦争が起こっていたと言われている。 |
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トンキン湾事件 |
1964年8月、北ベトナム沖のトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。
これをきっかけに、アメリカ合衆国連邦政府は本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。 しかし、1971年6月『ニューヨーク・タイムズ』が入手したペンタゴン・ペーパーズにより、攻撃されたアメリカの駆逐艦は南ベトナム軍の北ベトナム攻撃に随伴していた事実,ならびに決議文と攻撃目標のリスト自体,事件の2ヵ月前にホワイトハウスで作成されていた事実が明らかにされ,ジョンソン大統領の政策が激しく批判された。 |
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北爆 |
アメリカがトンキン湾事件を口実に、1965年二月以降北ベトナムに対して行なった連続的な爆撃。
ベトナム戦争に対するアメリカの本格的介入の第一歩となった。 これらのアメリカ軍による北ベトナムへの本格的な空爆作戦に対して、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は、「アメリカ軍による虐殺行為」だと訴え続け、後に西側諸国における大規模な反戦活動が活発化していく。 |
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日中平和友好条約 |
1978年、華国鋒・鄧小平政権と福田内閣との間で締結された。
日中国交正常化から6年が過ぎてから平和条約交渉が妥結したのは「反覇権」条項と「第三国」条項で最も論議を呼んだからである。 内容は、1972年9月に国交回復した時の日中共同声明の文面を基本的に踏襲したものとなっている。 第1条で主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が記述され、第2条で反覇権を謳い、第3条で両国の経済的、文化的関係の一層の発展を述べて、第4条でこの条約の第三国との関係について記されている。 |
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改革開放 |
中華人民共和国の鄧小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。
文化大革命後の経済を立て直すため、経済特別区の設置、人民公社の解体、海外資本の積極的な導入などが行われ、市場経済への移行が推進された。 |
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ドイモイ |
ベトナム共産党が1986年の第6回党大会で打ち出した「刷新政策」を意味するスローガン。
企業の自主権拡大、対外経済開放など資本主義的要素を取り入れ、人事面でも若手起用などの民主化を進めた。 結果として、インフレ克服、食糧生産増加、米輸出国化などの成果が上がったため、1992年4月公布の新憲法にドイモイ路線を明記し、その加速を図った。 2011年の第11回党大会でもドイモイ政策の継続が確認された。 |
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核拡散防止条約(NTP) |
アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国の5か国以外の核兵器の保有を禁止する条約。
1968年に調印され、1970年に発効された。 米ロ英仏中に核保有と新たな核開発を認めながら、非核保有国に核兵器の生産と保有を禁止し、非核兵器国のみに保障措置(国際的な監視)を義務付ける、など基本的に差別的で不平等な条約となっている。 また、核保有国に軍縮の誠実な追求を義務付けているが、それが守られないことに非核保有国の非難が集中した。 インド、パキスタン、イスラエル、南スーダンは未加盟。 インドとパキスタンは1998年5月に核実験を実施、イスラエルと共に事実上の核保有国となった。 |
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マーシャル・プラン |
1974年、第二次世界大戦で被災した欧州諸国のために、米国務長官マーシャルが発表した復興支援計画。
ヨーロッパ諸国の戦後復興にアメリカが大規模な援助を提供し、経済を安定させて共産主義勢力の浸透を防止する狙いであった。 これは、トルーマン政権の「封じ込め政策」の一環であり、共産主義の脅威に対抗するものであった。 ・ヨーロッパの復興をもたらす重要な要素となった。 ・東西冷戦体制を固定化させることとなった。 ・ヨーロッパ統合へのきっかけとなった。 ・アメリカ合衆国の伝統的な孤立主義外交(モンロー主義)を完全に脱することとなった。 ・アメリカ経済へ環流するしくみであった。 |
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新興工業経済地域(NIES) |
工業化を進展させ,高い経済成長率を達成し,先進国を目指す発展途上国・地域。ニーズともいう。
1979年、第1次石油危機によって世界経済が停滞するなか工業化に成功した韓国,台湾,香港,シンガポール,ブラジル,メキシコ,ギリシア,ポルトガル,スペイン,ユーゴスラビアの計10ヵ国・地域が新興工業諸国(NICS)と定義された。 1988年の主要国首脳会議で,台湾と香港を独立国と認めていない中国に配慮し,さらに第2次石油危機以後も経済成長著しい韓国,台湾,シンガポールと経済的苦境に陥った国とに分かれたことを考慮して,新興工業経済地域(NIES)に改称した。 |
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六四天安門事件 |
1989年6月4日(日曜)に、同年4月の胡耀邦元党総書記の死をきっかけとして、中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で鎮圧、多数の死傷者を出した事件。
この事件は、世界から猛烈な批判を浴びることになり、現在でも中国共産党は、天安門事件に関するあらゆる検閲を行い、中国国内ではこの件をインターネットで調べることすらできない状態となっている。 |
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マルタ会談 |
1989年12月2~3日、地中海のマルタ島でアメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ最高会議議長兼党書記長が、第二次大戦後の44年間続いた東西冷戦の終結を宣言すると同時に、米ソ関係が新時代に入ったことを確認した。
この会談では、具体的に新しい秩序づくりに主要な柱となる次の点を中心に検討された。 (1)軍備管理・軍縮問題 (2)東欧問題 (3)ドイツ再統一問題 (4)ソ連経済問題 (5)中東紛争問題 |
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北米自由貿易協定(NAFTA) |
North American Free Trade Agreementの略。
貿易の自由化による経済発展を目的として、米国とカナダとの間で1989年に米国・カナダ自由貿易協定が結ばれ、その後94年に、メキシコが加ったことにより現在の体制となった。 この協定では、域内の貿易における全品目の関税を金額ベースで99%撤廃することとなっている。 |
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パレスチナ暫定自治合意(オスロ合意) |
イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との間の1993年9月の合意文書。
パレスチナが自治政権を樹立することで合意した。 基本的には両者が「二国共存」を認める画期的なものであったが、和平の実現には到達していない。 |
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アメリカ同時多発テロ(9・11事件) |
2001年9月11日、ハイジャックされた2機の民間航空機がニューヨークの世界貿易センタービル(WTC、南北2棟)、1機が首都ワシントンの国防総省ビル、もう1機がペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に墜落し、3025人の死者を出した自爆テロ事件。
航空機が使用された史上最大規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。 その後、アメリカ合衆国と有志連合は報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行った。 テロリズムをアメリカ政府があらかじめ知っていたが無視したとする説、政府自身による自作自演であるとする説も唱えられている。 |
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ローマ法大全 |
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が編纂させたローマ法の法典である。
『法学提要』『学説彙纂』『勅法彙纂』とその後に編集された『新勅法』を一体化した総称。 これらの法令集はそれぞれ各種の写本を通じて後世に伝えられ,特に 11世紀後半にボローニャでローマ法学が復興して以来,皇帝の権威に基づいた法典として注釈や注解の対象とされ,広く流布した。 |
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クルアーン(コーラン) |
イスラム教の聖典。
ムハンマドが唯一不二の神(アッラーフ)から受けたとされる啓示がまとめられている。 ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。 |
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封建的主従関係 |
中世西ヨーロッパの封建社会において、領主層のなかに成立していた、主君と家臣の関係。
家臣は主君に対して隷従し、従軍などの軍役を奉仕する。 主君は家臣に封土を与え、保護する義務を負う。 このような、土地を仲立ちとした主従関係を封建的主従関係という。 国王は最大の封建領主として有力な家臣を諸侯として広大な土地を与え、諸侯もそれぞれ家臣(騎士)を持つ。 |